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家康はこの内戦を1日で終わらせたという1点だけで結果論的には大名将と言っていい。もし家康がいなければ1600以降もまたグダグダな内戦が続いていた可能性もある。
これって真に「勢力争い」であって諸将にとっては命を賭けるべき何者もなかったという事なんでしょうね所詮は豊臣家臣同士の対立抗争でしかなく、領土や家を守る戦いでもなく、どちらが勝ってもそれに付いていくだけなんというか「政治の延長としての戦争」という後の戦争論の本質を凝縮したような戦いだったのではないかと思っています
家康にとっては、関ケ原で戦わずに秀忠の到着まで岐阜か清州城で待っている事もできたはず。それをせずに決戦を挑んだのは、京極高次の存在が大きかったのかと思います。家康の調略に応じて決起した高次を見捨てては、調略済の各武将への心証は悪化しますし、恐らく小早川秀秋等の裏切りもなかったのでしょう。高天神城で部下を見捨てた武田勝頼がどうなったかを見ている家康ですから、形だけでも見捨てないという姿勢が必要だったのかと思います。なので、大津城が陥落するギリギリまで待ったが秀忠軍が来なかったため、やむを得ず陥落直前に関ケ原で決戦を挑んだという形なのかなと。西では真田親子が東では高次がそれぞれ主力を足止めしている中で、家康も家康で追い詰められていたのかなと思います。
家康が明らかにすごい西軍を弱体化させるために大名を東軍に呼び込み西軍に付いた有力大大名は広島の毛利みたいに参加させないようにしたり岡山の宇喜多みたいに御家騒動で弱体化させたり人望のない三成が残念だったのに加えてまともに戦えば強敵になる有力大大名に(特に彼らの家来たちに)戦う前から影響を及ぼしていた家康の戦略がすごすぎる
戦国は書物がたくさん残ってるので、いろんな観点から歴史を眺められて楽しいですね。いつか旗指物クイズと由来の動画求む!
この時代の人達みんなかっこ良い
何だか色々あったんですね〜、面白かったです!
歴史は奥が深いですね^^
主様、こんにちは。逸話では、綱成(つなしげ、つななり?)は、武勇だけでなく、白河晴綱、長尾当長、蘆名盛氏らと、外交交渉など、外交の使者として活動することもあったようですね。確か、白河古文書などに記されていると聞きました。本日も楽しく拝聴させて頂いております。いつもありがとうございます!
いやーこれ研究が進むのが楽しみだな、10年後ぐらいには関ヶ原どうなってるのか楽しみだな
そもそも上杉討伐が口実でそれを餌に敵味方をあぶり出すためだからね。そのため反対勢力に準備させるため家康の上杉討伐の行軍はとても遅かった。そして反対勢力が立ち上がると待ってましたと反転した。幼い秀頼の母淀殿は家臣同士の争いとしか認識していなかったので大義名分ない戦いだからグダグダになるのは仕方ない。真面目に戦ったのは宇喜多と三成と三成憎しの福島加藤くらいだった。東軍西軍共に各諸将に当然寝返りの文は送っていたが実力、信頼度ともに家康と三成では格が違いすぎて勝敗は見ての通りだ。
家康が蟄居中の三成をおびき出すための上杉討伐だと思います
大変勉強になりました!図書館に通って歴男になろうかな♪
弟の秀長の死本人の秀吉の死最後の守り手の利家の死輝元は頼りにならない家康に対抗しうる武将がいない時点で大勢は決していたのでしょうか
秀次の死も入れたい
映像がとてもきれい
聞きやすい話し方ですね。
信長、秀吉ならどうしたか。戦う時期「天命」を待てなかった。
普通に考えたら関ヶ原(地方の両軍の睨み合い)が1日で決着するとは思わない。官兵衛が清正と組んで九州の西軍方を駆逐するのも当然。あっけなく終わったので、焦って家康の怒りを買わない様に苦心している。あっけなく終わったので、秀忠軍温存の策を隠す為に秀忠を厳しく叱責するしか取り繕えない。本当に無能なら2代将軍にしていない。。。
しかしながら、この後も家康は最大の「目の上のたんこぶ」の毛利と島津は改易にも、戦って滅亡させることは遂にできず、さぞや忌野際も、心残りだったかも。秀忠も、前半生くらいは「よもや・・・」と、不安になる夜があったかも。だから、秀忠は側室どころではなかったのかもヨ☺️。
260年後に痛い目見ますね。
上杉討伐に向かった家康が三成挙兵の報を受けて踵を返し、西に向かった。その軍を差し向けられた上杉は?そのまま徳川勢を背後から追えば徳川軍は挟み打ちに合いますよね?それを止めたのは伊達や最上。家康は事前に伊達へいわゆる百万石のお墨付きを渡し、上杉の抑えとした。ということは、家康は初めから上杉と戦をする気はなく、あくまで三成に挙兵させる口実を作った。と考えれば、三成がたまたま挙兵した。ではなく、家康の策略に乗せられたという方がしっくりくるし、個人的には伊達がしっかり上杉を抑えたことが関ヶ原での東軍勝利に繋がってると思っています。それこそが、関ヶ原が日本を二分する天下分け目の戦いと言われる所以であると思います。
大老間権力闘争ですよね。
関ヶ原の戦いって、本当にグダグダって言葉がしっくり来るんですよね。視野広くそうさせたのが家康の恐るべき力なんでしょうが。
負ける戦いに参戦した西軍の武将達はどんな想いで戦場に向かったのだろうか。勝てば官軍勝ったほうが歴史上の真実という物を自由に後世に伝えて行くのではないだろうか。
色々な人の思いが重なりました。私は長束正家が好きです。本来なら大阪城に留まり平坦を仕切るべきだった。これは増田長盛が厭戦気分だったからでしょうね長盛の城は大和郡山。東軍を迎え撃つには要所です。大阪城に長束正家がいたら東軍の勝ちだった。
うぽつです!!できれば世界史関連の動画もお願いします!!
10:33 加藤清正は当時、九州にいるんじゃないでしょうか?
天下分目ってどっちかと言うと小牧長久手の戦いですよね。
まさに👍
いや、その通り!力の有る者どうし
@@石峰良幸 豊臣vs織田、徳川連合軍三英傑(1人違うけど)の戦いだもんね〜
小早川秀景は裏切ったのではなくもともと東軍だったと思う
@@マヤ平 秀秋
家康も至極全うな感じだったらしいがな秀吉の遺言に最初に背いたのも毛利・奉行方だし、他大名との婚姻も家康の立場から考えると違反ではなかった
白峰説や高橋説について解説してくれるのかと期待しましたが、実に残念です。今ある解釈そのままでしたね。
gentoku ryubi 何ですか?それ
あの説は斬新ですが、解釈が独善的すぎて無理があると思います。
三成と毛利二人いないと西軍はなりたたんよね。逃げ道の無いところに陣をはったのは西軍必勝と思ったからだろうけど。
それから約270年後に島津と毛利に関ヶ原のリベンジを食った徳川。あのとき息の根を止めとけば、と家康も思ったに違いない
三成さんの戦下手(経験不足?)と人望の無さが西軍をまとめられなかった&軍の戦意高揚にも繋げられなかったのか┐('~`;)┌
輝元は吉川広家の本領安堵の交渉を知らなかったという話しもあり、それ以降宗家は広家は裏切り者として冷遇し疎遠になったとか…。
関ヶ原の戦いは奥が深く、三成が中心だったかもわからないし、そもそも戦場は関ヶ原じゃないという説もある。坂本龍馬もだけど、史実と後世の小説を分けないといけない。
坂本龍馬と石田三成はたしかにかぶりますね。奉行職も解任されていて実権も人望もなかった三成が関ヶ原においてどのような立ち回りだったのかはまるで分っていませんからね。連合軍的性質が強い西軍において、話を面白くするためには確固たる中心人物がいた方が都合が良いわけで、それ故に忠義心により西軍をおこし、最終的には斬首された忠臣石田三成が創作されたのだと思います。
某やるおスレで吉川が「西軍が勝っても『自分に』良いことがないし、論功行賞を取り仕切る人間がいなくて恩賞とかなくなるだろう」みたいなこと言ってて、要は大名陪臣問わずこの意見が多かったんだろうなということ。
伊達政宗が上杉、佐竹と連合して関ヶ原の戦いで手薄になっていた江戸城を落としていたら面白い展開になっていたと思う
その頃、伊達家は佐竹家、上杉家と敵対していた。関ヶ原の戦いの最中上杉と伊達が正面衝突していたからそれは難しいと思うけど、もしそれがおこっていたら真田も加わって歴史が変わっていたと思う
伊達政宗は所詮家康に良い様に使われたって事でしょうね。本当に才覚があれば、この機を逃す手はない!年齢的に政宗大チャンス!
北の関ヶ原がなかったら、、、考えると奥が深い
@@菅原道真-r2y これややこしいねぇ佐竹、最上、結城、蒲生と上杉を取り巻く中の伊達
三成は豊臣に対して忠義一徹。イエヤスの傍若無人さに耐えられずに旗を挙げたんだろうな。三成のドラマが作られたら面白いのにね♪
「関ケ原」という映画がありましたよ~主演は岡田准一で三成役でした。。。
僕らは現在知り得る情報(それすら研究が進んで変わっている)を知った上で、結末までわかってて歴史を振り返るとゆう事を楽しんだり学ばせて貰ってます。だから、家康が優れてるとゆう意見には『うんうん!』と思うけど。三成がダメって意見見るとせつなくなるなぁ。ダメで心底人望ない人がこんな大きな事出来るわけがない。
秀吉死後、後を追うように、前田利家が逝ったのが、豊臣家の不幸。
グダグダではない戦争がないだろうね
立花宗茂が「秀吉様の恩義にそむけない」といって西軍に参加したというのなら、当時多くの武将たちは、豊臣VS徳川であることは知っていたはず。「これからは徳川の時代」と思ったことだろう。結局、自家がどのように勝ち馬に乗れるか、それだけを考えているだけ。
真田は最後まで勝ち馬を迷ったのかも
お疲れ様でした。私が推測する関ヶ原の戦いはどうでもいい女の戦いでしょうか?オネとチャチャの戦いだと信じてます。言わずもがな、歴史大好きな人は豊臣恩顧の武将はどちら側になびいたか言うまでもありません。しかも西軍は人質を取るなど言語道断です!三成も関係の無い~関ヶ原の戦いの前日の中山での戦いで多分、勝敗はついていたみたいなのですが。。。実は家康の手紙作戦で総大将の毛利秀元(養子)も家康軍が堂々と通り過ぎるのを見守っていたらしいです。この毛利軍南宮山での躍起にハヤる長宗我部盛親や西軍に対しての言い訳の逸話が「宰相殿の空弁当(さいしょうどののからべんとう)」です。「大変申し訳ありませんが只今、兵に弁当を食べせてますので暫くお待ち下さい」恐らくどさくさ紛れに言い放ったのでしょうが頭の回転が早い人ですね。
最後は・・人望(笑)3:00
清正、関ヶ原に来てませんよね。
官兵衛と共に九州の西軍の領地を荒らしたのは超有名ですね。
戦べた同士の戦い。これに尽きる。三成は忍城の失点がでかすぎて、秀吉の衣を借りることでいい気になってただけ。人生経験の違いがもろに出てしまった。毛利輝元は三成より己の分を知っていた。だから防長2州に削られても耐えられた。妙なところで毛利元就の血統が働いた。260年を経てその執念が実を結ぶ。
だから天下分け目の決戦でしょ…戦争は政治の延長ですよね。
ですよね。武家社会の序列では豊臣家臣なのに、征夷大将軍になれたのは関ヶ原で勝ったから。このチャンネルは初心者入門編(興味を引きそうな話題で歴史ファンを増やす)なので、突っ込んだらキリがないです。。。
三成の側には島左近もいたのにね
最初に動いたのが、東軍であったとすれば、大垣城を撃ってでた西軍は、家康が、関東に帰参できないように、関ヶ原の東側に布陣するとか、あるいは、挟撃を念頭に、立花宗茂を、頼りにして、大垣城に、籠城することもできたのに、何故石田三成は、焦って戦站を、開いたのか?三成には、少なくとも、捕らえられて、斬首される憂き目に会う運命にはならなかった局面はいくらでもあったと、思うのは、私だけでしょうか?
自分なら大坂城への退路は最低限確保しますが(笑)三成は相当な自信家なんでしょうね。万が一敗戦しても大坂に逃げられたら家康も手が出せなかったと思います。家康でさせ敗戦した場合の退路は確保してたのに。
@@pianochandaisuki 山内一豊、堀尾忠氏、中村一氏、東海道の城々を治めていた家康監視の秀吉子飼いの諸将が、家康にそっくり帰依したことなどですね。また、UP動画の内容のように、三成の居城の佐和山城は、せっかく関ヶ原に近接しているのに、何故、要領よく戦線離脱して、籠城しなかったのか、彼の自信と現実の能力は、あまりにもかけ離れていたと言えるのではないでしょうか。
家康を大阪まで引き込めば必勝だった。輝元も総大将の立場から、見て見ぬフリもできないし、豊臣系の大名は大阪に手出しはできない。自領の佐和山を突かれるのを怖れて、関ヶ原などで野戦をやったのが大失策。
佐和山を突かれるのを恐れた云々は一部事実もあるでしょう。ただ西軍はここを東軍に突破されると大垣城に孤立せざるを得なくなります。伊勢路は長島城を福島が抑えていて将兵を支える兵糧を送ることが出来ません。安定して兵糧を確保するには関が原を突破されると手の打ち様がなくなり、小早川が松尾山城占拠した時点で関が原に集結する選択肢以外無くなっていました
toshi s だからこそ佐和山も捨てて、大津の味方と合流して大坂まで引けば、家康に戦う理由が無くなる。家康に西下させた時点で作戦負け。その前に東軍諸将を討っておかなければいけない。戦機を逸して、それから家康得意の野戦など必敗だ。
そしたら京都にいる天皇は家康の好き放題になりますよね、、、
りょうちゃんスポーツ 天皇の権威など既に無いに等しい状態。何なら大坂まで連れて行ってもいい。その必要もないとは思うが。ただ、大坂まで家康を引き込んでも、家康の口車に乗せられる可能性はある。家康には大坂を攻めるつもりはなく、君側の奸を除くだけとか言って、三成らを排除するかも。
三成は、関ヶ原で勝負をつけることにこだわりすぎて、兵を疲れたまま移動させた。島津は怒りのあまり戦おうとしなかった。
島津と島左近は夜襲案を提案したが三成が却下、やはり三成は戦ベタだ
@@小谷和浩 それ現在ではほぼ全否定されてますよ歴戦の島津が数万の家康本陣に奇襲なんていう危なっかしいギャンブル策やろうなんて言うはずないと
三成は家康の作戦にまんまと乗せらせた。という事だと思います。
B.C.632・城濮の戦いで、晋の文公は三舎をさける=軍団を退却させるという、以前にした約束を守って引っ込んだのをみて楚の成王は、はい負けって戦わないで退却した。 三成は三顧の礼でむかえた島左近と大谷吉継のアドバイスは無視して野戦をいどんでいる。アメリカンフットボールではないので、地面をとっても勝てません。
とにかく家康と三成の人物差で片付けるのは、あまりに歴史に対する理解が浅いと思いますよ
我が家の家系図には、憎き家康と書いてありました。毛利家の家臣だったのかな❓️
真田家の家臣の可能性もありますね
場所はどこなんですか?
あまり詳しく調査されていないのが残念です。島津家の家臣の覚え書きとかをもっと確認された方が良いですよ。
グダグダだったじゃなくて、家康が関ヶ原の前にグダグダにしたんでしょ。
ダイナ 大坂の陣もそうだがもうこのころはガチンコよりも諜報戦が主流。まず勝ってしかる後に戦う。その点だけは中国より2000年遅れてる。
年取った後の秀吉に出来なかった戦略w若い頃は得意だったけどw
三成が実戦経験に乏しいとは思えませんね、もちろん武闘派大名たちと比べれば少ないでしょうが槍働きもこなしております。そして上杉征伐の際に家康は豊臣からの錦の御旗を得ています。どうあがいてもあの段階では徳川は逆臣にはなり得ません。むしろ輝元が秀頼を人質にして立て籠っていると言う大義名分を得ることができます。
この戦を一般民が高台から見物していたなんて記録があるそうですが、想像するだけでワクワクしますね当時の各武将たちは何を考えて戦っていたのか、見物人も何を思い見ていたのかも現代人の勝手な想像だがそこが歴史のロマンだね
一般人の見物って、関ヶ原方面の住人だろ。農民の首を集めて恩賞に与ろうとする足軽とかいるからな。避難というべきだ
徳川家康の勝利ではなく、内部対立。
奥が深くてヒダがあるますねぇ~!
勝負は一瞬でついてそもそも小早川秀秋も最初から東軍だったという説が最近でてきました。
北政所は迷っている小早川秀秋に今後の世は「徳川の世」となると言われたそうですよ。
徳川の世にするか己が秀頼の後見人になり関白になるという傲りに決断出来る器量もない秀秋は最後の最期まで大谷吉継に信用されていませんでした大谷吉継が頼みにしていた与力四人衆が皆寝返るとは思ってもいなかったでしょう
たしかに。しかし石田三成は戦を有利に展開させて小早川を西軍に参加させてやる。と執念を燃やしたことはさすがだと思うがな、
戦後、毛利も「三成にいっぱい食わせられたわい」って言ってましたし、ホント、三成さん、人望がなかったんですね。。ま、真面目ではあったんでしょうけど。個人的には嫌いじゃないですよ。
本能寺の変がなくても最後には家康が天下を取ったかもね
lemuelianus 25勝1敗の方が表現が良いと思います。私の格闘技の見過ぎかもしれません笑
うむ❗信長には凡庸な息子しかおらん。家康にはわりと良い息子が多い。第一信長は部下の意見は聞かない。徳川幕府は必然である😳
@@レミュ-y7g 秀吉の暗躍説に賛成です、得をしたのは秀吉、そのころ家康は伊賀越え中
立花宗茂、有名ですよ。多分知らない人は戦国武将を知らない人です。
東の本多忠勝 西の立花宗茂ってぐらい有名だよね(例えはもっと違うけどね)
私も、戦国無双まで、知りませんでした。
知名度が低いのは、宗茂が九州平定以降に活躍した人物だからだろうな。実際、秀吉の四国・九州・小田原征伐はいずれも圧倒的な兵力で蹂躙した節があり、不人気に感じる。一般人の多くは九州の大名といえば島津・大友・龍造寺を挙げるから、小西行長・加藤清正・黒田長政・立花宗茂などの名前は一般人には九州の大名としてあまり知られてないのは仕方ないのかもね。
だいたい日本屈指の戦国大名に、文官が大将はって挑むのが無謀極まりない。プロ野球のペナントレースで、フアンの芸能人が監督するようなもんww
三成の悲運は、実に痛ましいところでございます。私も人望がないので、ある意味三成に同情するようなことがあります。「精神」は人に左右される、というところが、「人間の弱さ」でしょうか?
家康の挑発に乗った三成のおうーんゴール!
結局、ソレだったな🤔
天下分け目の合戦に変わりはありませんよ。 全国の全ての大名が 東 か西か どちらに付くか 態度を 決めなければならなかったのです。
初めまして😊態度を、って言葉正確✨参加武将全員が『ほんまはどちらにつきたいか。(不参加も自由)』だけで東西選べたら組合せ全然変わったやろなぁ。
喜連川家だけはどちらにも付いてませんね。ただこの頃はとても大名とはいえない勢力でしたけども。
@@ひろたかし-w8m 徳川家康は、 長く続く 名家を好んでいたので 、足利の 血を引く 喜連川家を取り立てたのです。
関ヶ原の戦いは、徳川家康が用意周到に仕組んだ罠、だったように思いますけど。徳川家康が上杉を討伐する理由も、ごり押しですし。上杉を討伐する前の、標的は前田家でしたから。徳川家康が豊臣軍として大阪城を離れて、石田三成に事を起こされたのでしょうね。勝ち戦の決まっていた、東軍の大名も、長期の戦いは好んでおらず。そこで、武功を上げておかないと、困る小さな大名や、浪人が必死に戦いました。途中で、西軍から寝返った大名は必死に戦いましたけど。
上杉討伐は家康の罠に賛成、罠にかかった三成
いやいや、考察が浅はか過ぎる……近くにある佐和山城に逃げ込んで、もう一度大坂城をを目指せばよかったのです??そんなうまくいくわけねーだろ。
なかたたなか 思った。
確かに。信長の野望じゃ無いんだから。。。(笑)
日本人同士の最大人数の戦って、大坂の陣じゃなかった?
いや、小田原征伐
小田原戦は、輸送部隊なども入れて50万人といわれています。それだけの規模を運用できる豊臣に降伏した。
三成は無能ではないが政治力と戦闘面どちらとも家康と比べられるのは酷。良くも悪くも三成は行政官僚だと思う。
資金源を語らない歴史って意味あるのかなぁ?戦が起こるのは大概は金絡みだし、子分に身分と地位を保証する信長も貿易と通商で力を得たし、秀吉は太閤検地、家康は金山経営金がないと子分は着いて来ない
京極高次が立花勢を引きつけた事が関ヶ原の勝敗を決めたと思います。逆に言えば立花勢が到着する前に勝負を決めた家康の作戦勝ちですね。ただ三成が実戦経験がない云々は間違いですね。基本的に秀吉の御用聞きしかしていなかった為に家康のようなしたたかな外交が出来なかったこれに尽きます熱。
「小牧・長久手の戦い」のほうがよほど「天下分け目の戦い」っぽいですね。なにしろ織田、豊臣、徳川の三家が主力として参戦。毛利、前田、長宗我部、北条らも参戦。尾張・美濃を中心に北陸・四国・関東まで拡大した戦域。織田の衰退・豊臣の政権確立・徳川の存続という後世への影響など、どれをとっても最重要の戦いと言えます。
三成の実力不足!実戦も足りければ、人望もない!良く戦ったなと思う!
毛利輝元が情けなすぎる。吉川広家、安国寺恵けい、関ヶ原に赴いた毛利秀元、小早川隆景の養子である小早川秀秋はもはや毛利一族とはいえないのかもしれないが、それぞれの武将にそれぞれの思惑があり、一族を全く統率できていない。だいたいこのような天下分け目の重要な一戦に総大将自身が出陣せず戦火の及ばない所にいるなんて、、、戦に敗れた後も毛利は本領を安堵するという家康の言葉をそのままうのみにして大阪城と秀頼をあっさりと家康に引き渡し広島に退去するとは、本当に残念すぎる大将と言わざるを得ない、ただ皮肉にも輝元の凡庸さのお陰で毛利家は存続をゆるされたのかもしれない
毛利のしたたかさに騙されてますね?本格的にやり合えば家が潰されちゃう。だから、消極的にたたかったんでしょうが
隆景が存命であれば、結果は変わっていたかもしれませんね。
OK MT もう少し長く生きてて欲しかったね
確かに…小早川隆景の存在は大きすぎましたね。廃嫡にした秀包がそれなりの器量だったような気がします。一番の不幸は、毛利の三本の矢がばらばらだったことでしょう。兄弟が結束が強いから子の代も?とは難しいものですね。
隆景が存命だったら関ヶ原合戦を迎えるにあたって毛利はどういう行動をとったんでしょうね。
佐和山も近かったのだから逃げて態勢を整えるって、そんなことしたら東軍に余計勢いがついて、さらに宇喜多とか小西、大谷などの手堅い味方が消えて、裏切り者が続出っていうことになるんじゃないかな。それで大阪に行くルートを遮断されちゃったら袋の鼠だし、1回目はだめだったから、2回目の挑戦なんて土台無理な話じゃないか。もちろん頼朝の例はあるけど、鎌倉では平家はグダグダで、義仲もいたから頼朝だけに力は割けなかったんじゃない?でも、この時は三成を潰せばOKっていう状況だったのだから、形勢不利と見たらいち早く遁走…なんて判断はできないよね?姉川とか4次川中島みたいに頑張ってれば形勢が変わることだってあるんだし。途中で逃げるっていうのは、結果を知っているから言えることであって、その場にいた人にはできないことだろう。「トップがやられては軍を保てない」っていうけど、トップが逃げちゃっても保てないと思うけど。
hyttskzk 長文意見失礼します。自分は負けたが見えた時点で佐和山(もしくは他の西軍の領土)へ行くべきだったと思います。勝てるかとは別に。というのは逃げたところで上杉が負けているからです(このせいで勝ち筋が少し狭い)。トップが逃げたら確かに軍を保てずに関ヶ原は壊滅しますね。それは結果論から言うと逃げなくても変わらなかったわけで。陣形を見るに南宮山が動かないのはほぼわかっていると言わんばかりの魚鱗陣ですし、小早川はもとより東軍なのはお察し。(正直脇坂さんたちは、、、どうなんでしょうか?)大谷も小西も宇喜多も全力。島津は動かなかったなどと言われてますが井伊軍と交戦していたのは確かでしょう(島津陣の防戦だけだったのか分かりませんが)。要するに関ヶ原で出せる最大火力がみんなが知っているあの結果です。これはもう逃げる一択では無いでしょうか。(宇喜多軍の敗走がめっちゃ邪魔だ!!by島津)逃げれるのかは、、、まぁ三成よ頑張れ。逃げたあとは島津も長宗我部も立花も(上杉も毛利も)なんとかしてくれる「可能性」はありました(現に義久は九州で加藤勢を蹴飛ばしたらしいですし)。そうなると三成を潰せばOKだなんて言えない状況になりますよね(この三成を潰せば、、、というのが1番結果論な気がしますが)。正直自分の意見は結果を知っているから言えるものだというのは否めませんね。ですが三成はこれくらいの判断は取れたはずではないでしょうか。戦術と戦略は別物とは有名な話ですが、さすがに戦略に優れた人くらい居ないものでしょうか。というより三成も戦略なら今まで見てきたはずですが。要するにですが、正解は一つではないとよく言いますが(コナン涙目)撤退するのが正解だと思います。
天下分け目の戦いと言われたのは後の話しですね江戸時代に家康が江戸幕府を開いた後に書かれた記述が物語になりました。家康を称える脚色はあって当然です。天下分け目の戦いと題されたのは文字通り各地の大名が家の存続を賭けてどちらに味方するのか?をはっきりさせる出来事だったからです。この関ヶ原の戦いで仮に家康が敗れていたとしても西の豊臣家がまとまって天下統一ができた可能性は低いでしょうね。つまり江戸時代になるのはもっと遅れただけです。家康が天下統一を諦めるはずはありません。西軍がそのまま江戸に向かって家康を追い詰めて討伐するということは考えにくいですね。二分されたままの時代が過ぎて結局は家康が将軍になると思われます。。
>関ヶ原の戦いで仮に家康が敗れていた家康は東軍を維持できませんよ?次に東北は群雄割拠に逆戻りですね。家康としては天下人を諦めて割拠という選択肢が魅力的になりますが、一戦して勝利した豊臣の奉行衆にとっては、多少時間がかかっても東国と九州の再制圧は必然です。大坂を中心とする経済ネットワークの再構築が課題とならざるを得ませんから15年後、家康は寿命を迎えますが、三成は55歳ですね。さて?
家康の死後、三成と秀頼で豊臣政権を維持したのでは?そのための大阪の陣では?
かわいい💗
そもそも石田は20万石くらいしかないから力不足だろう。
家康の作戦勝ち(笑) 三成の賢いのが返って仇になった感じもします。現場実戦のなさと人望の薄さかな!
三成が悪者に見えますが、三成にも大義名分があっだと思う。
日本の政治はちょうりゃくで決まる 今も昔も変わらん 三成の勝機は籠城か夜襲しかなかった 野戦に持ち込んだ時点で負けやろ
さおりさんの「〜しょう。」を聞くと、清涼感のある空気が周辺に流れます。これは、何かの思し召しなのでしょう。感謝。
歴史の真実は?
真実には色んな側面が有って、見方次第でどうとも変わるものです。
家康老獪ですね。
確か三成の近くには豊臣家黄母衣衆2000人が布陣していたけど、それは徳川対豊臣にはならないのかな🎵
堀北真希ちゃんキタ━(゚∀゚)━!
三成の不幸は戦闘ではなく兵站の天才だったこと。秀吉は兵站の重要性を見抜き、三成を重用したが、周りは理解出来ずに嫉妬されてしまう。映画にもなった忍城戦では、秀吉のリクエストで水攻めしたのが運の尽き。それ以後、戦闘に関しては自信を無くし、周りからもそう見られてしまった。朝鮮出兵では前線が報奨欲しさに戦果を盛っていたが、三成が嘘だと見抜き、秀吉に報告したから前線の将から恨みを買ってしまった。トコトン運が悪い人だなぁと思ってしまう。
方や戦上手で人望も厚い家康。勝ち目なし。
家康の人望は、全て策謀と、荒れていた関東平野の実禄化による、財政力、譜代の家臣団の結束の堅さ、特に策謀に長けた者が多かった事。だから、まだ戦国の気風の残る豊臣家臣団を、バラバラに出来た事が、関ヶ原につながったとは、言えないだろうか。また、外様大名でも、東国諸侯は、悉く家康に懐柔されたが、その正体を見破って居た上杉家に難癖を付けて、上杉征伐の名目で戦闘準備の整えさせた東軍諸侯に対して、西軍の動きは、余りに後手に回りすぎていた。また、黒田長政の父、秀吉の軍師でもあった黒田如水を結局、九州で蚊帳の外にしてしまった事も、西軍には痛い条件のひとつではあるまいか🤔💦
綺麗な黒髪と大きな瞳に、白のニットがお似合いですね☆
豊臣恩顧の大名が「三成バカタレ」と言って家康についたからな。
家康の書状は無かったはず。加藤清正や福島正則の書状はあったみたいだけどね。
宇喜多秀家正に、秀吉の子でしたね!(汗)義理のですが。
決定的に裏切って、勝敗を決めたかたちになった金吾 小早川秀秋も、秀吉の養子だったよ。
考察が浅い。関ヶ原は豊臣vs徳川の構図ではない。豊臣政権下の家臣の対立抗争であり、秀頼を主君として奉じていたのは、家康も同様だ。
おけ、みるのやめた
動画内でそういう風に語っていると思うのですが・・・。あなたこそちゃんと見てからコメントしているのでしょうか?ちょっと理解力と人格を疑ってしまう
動画みた?
この動画では家康が如何に極悪人なのかわかっているようだが、他の動画との整合性が崩れるんじゃないかな?まぁ関ヶ原の状況を理解している点は評価できるけど(´・ω・)
この時、豊臣本家が全く動かなかったのが理解出来ない。確かに立場的には豊臣政権内の内紛なんだけど、この時既に豊臣の脅威になりつつあった徳川よりも、豊臣の忠臣だった三成側が勝った方が良かったはずなんだけどな。
こうへい それには、諸説ありますが、司馬遼太郎の小説[城塞]には、淀殿が家康を打ち倒したいが。豊臣対徳川ではなく、一家臣が徳川と挑むことでもし徳川側が勝っても家康一代限りの天下と言う戦略を淀殿は立ててました。虫が良さすぎる作戦ですね。
家臣同士の戦いにすれば、三成が家康を倒してくれるならいいし、負けても家臣同士なので本家の豊臣家に被害はないと考えたんでしょうね
立花軍?毛利軍ではないのか
nobusumi4 一応毛利は戦場にいたよ。だが先鋒部隊の吉川広家が家康に内通してたから動かなかったけどね
関ケ原での戦闘でも、大正時代だったかなドイツ陸軍将校(メッケルだったかな)こんなもん西軍が余裕勝ちって言ってたぐらいだもんなあ、グダグダじゃなかったら東軍勝ててないよね。
yoshii871 明治じゃないかな?違ったらごめん
あの布陣は明治になってから薩長が作ったという説がある
@@rokuemu114 そうなんだ!面白い説ですねぇ
@@小谷和浩 薩長はながらく幕府に冷遇されたから
ドイツの将校がたいした当時の知識もなしに何か言ったから、どうしたんだよ。 人の威を借りずに、自身の意見なり主張だけを投稿するがよい。
本当に調べて言ってる?佐和山に戻って大坂目指せって、本戦に全軍連れて行って、腹壊して馬にものれない状態であるのわかって言ってる?馬鹿にしてるのか?
関ヶ原での戦闘、その後の経過を見ると、毛利輝元、吉川広家の毛利グループの馬鹿さ加減だけが目立つ戦いだね。
その裏すら読めないとは愚かなのはどちらかな?積極的に戦えばお家断絶、しかし、義理で戦えば、勝てばラッキー、負けても、領地削減ですむ。算盤勘定もできないようじゃね
これはもう歴史的事実ですよw
MrYoshichan 結果論じゃそうなる
MrYoshichan 小早川秀秋「ほんませやな」
家康はこの内戦を1日で終わらせたという1点だけで結果論的には大名将と言っていい。
もし家康がいなければ1600以降もまたグダグダな内戦が続いていた可能性もある。
これって真に「勢力争い」であって諸将にとっては命を賭けるべき何者もなかったという事なんでしょうね
所詮は豊臣家臣同士の対立抗争でしかなく、領土や家を守る戦いでもなく、どちらが勝ってもそれに付いていくだけ
なんというか「政治の延長としての戦争」という後の戦争論の本質を凝縮したような戦いだったのではないかと思っています
家康にとっては、関ケ原で戦わずに秀忠の到着まで岐阜か清州城で待っている事もできたはず。
それをせずに決戦を挑んだのは、京極高次の存在が大きかったのかと思います。
家康の調略に応じて決起した高次を見捨てては、調略済の各武将への心証は悪化しますし、恐らく小早川秀秋等の裏切りもなかったのでしょう。
高天神城で部下を見捨てた武田勝頼がどうなったかを見ている家康ですから、形だけでも見捨てないという姿勢が必要だったのかと思います。
なので、大津城が陥落するギリギリまで待ったが秀忠軍が来なかったため、やむを得ず陥落直前に関ケ原で決戦を挑んだという形なのかなと。
西では真田親子が東では高次がそれぞれ主力を足止めしている中で、家康も家康で追い詰められていたのかなと思います。
家康が明らかにすごい
西軍を弱体化させるために
大名を東軍に呼び込み
西軍に付いた有力大大名は
広島の毛利みたいに
参加させないようにしたり
岡山の宇喜多みたいに
御家騒動で弱体化させたり
人望のない三成が残念だったのに加えて
まともに戦えば強敵になる有力大大名に(特に彼らの家来たちに)戦う前から影響を及ぼしていた家康の戦略がすごすぎる
戦国は書物がたくさん残ってるので、いろんな観点から歴史を眺められて楽しいですね。
いつか旗指物クイズと由来の動画求む!
この時代の人達みんなかっこ良い
何だか色々あったんですね〜、面白かったです!
歴史は奥が深いですね^^
主様、こんにちは。
逸話では、綱成(つなしげ、つななり?)は、武勇だけでなく、白河晴綱、長尾当長、蘆名盛氏らと、外交交渉など、外交の使者として活動することもあったようですね。
確か、白河古文書などに記されていると聞きました。
本日も楽しく拝聴させて頂いております。
いつもありがとうございます!
いやーこれ研究が進むのが楽しみだな、10年後ぐらいには関ヶ原どうなってるのか楽しみだな
そもそも上杉討伐が口実でそれを餌に敵味方をあぶり出すためだからね。そのため反対勢力に準備させるため家康の上杉討伐の行軍はとても遅かった。そして反対勢力が立ち上がると待ってましたと反転した。幼い秀頼の母淀殿は家臣同士の争いとしか認識していなかったので大義名分ない戦いだからグダグダになるのは仕方ない。真面目に戦ったのは宇喜多と三成と三成憎しの福島加藤くらいだった。東軍西軍共に各諸将に当然寝返りの文は送っていたが実力、信頼度ともに家康と三成では格が違いすぎて勝敗は見ての通りだ。
家康が蟄居中の三成をおびき出すための上杉討伐だと思います
大変勉強になりました!
図書館に通って歴男になろうかな♪
弟の秀長の死
本人の秀吉の死
最後の守り手の利家の死
輝元は頼りにならない
家康に対抗しうる武将がいない時点で
大勢は決していたのでしょうか
秀次の死も入れたい
映像がとてもきれい
聞きやすい話し方ですね。
信長、秀吉ならどうしたか。戦う時期「天命」を待てなかった。
普通に考えたら関ヶ原(地方の両軍の睨み合い)が1日で決着するとは思わない。
官兵衛が清正と組んで九州の西軍方を駆逐するのも当然。
あっけなく終わったので、焦って家康の怒りを買わない様に苦心している。
あっけなく終わったので、秀忠軍温存の策を隠す為に秀忠を厳しく叱責するしか取り繕えない。
本当に無能なら2代将軍にしていない。。。
しかしながら、この後も家康は最大の「目の上のたんこぶ」の毛利と島津は改易にも、戦って滅亡させることは遂にできず、さぞや忌野際も、心残りだったかも。
秀忠も、前半生くらいは「よもや・・・」と、不安になる夜があったかも。
だから、秀忠は側室どころではなかったのかもヨ☺️。
260年後に痛い目見ますね。
上杉討伐に向かった家康が三成挙兵の報を受けて踵を返し、西に向かった。
その軍を差し向けられた上杉は?
そのまま徳川勢を背後から追えば徳川軍は挟み打ちに合いますよね?
それを止めたのは伊達や最上。家康は事前に伊達へいわゆる百万石のお墨付きを渡し、上杉の抑えとした。
ということは、家康は初めから上杉と戦をする気はなく、あくまで三成に挙兵させる口実を作った。
と考えれば、三成がたまたま挙兵した。ではなく、家康の策略に乗せられたという方がしっくりくるし、個人的には伊達がしっかり上杉を抑えたことが関ヶ原での東軍勝利に繋がってると思っています。
それこそが、関ヶ原が日本を二分する天下分け目の戦いと言われる所以であると思います。
大老間権力闘争ですよね。
関ヶ原の戦いって、本当にグダグダって言葉がしっくり来るんですよね。
視野広くそうさせたのが家康の恐るべき力なんでしょうが。
負ける戦いに参戦した西軍の武将達はどんな想いで戦場に向かったのだろうか。勝てば官軍勝ったほうが歴史上の真実という物を自由に後世に伝えて行くのではないだろうか。
色々な人の思いが重なりました。
私は長束正家が好きです。
本来なら大阪城に留まり平坦を仕切るべきだった。
これは増田長盛が厭戦気分だったからでしょうね
長盛の城は大和郡山。
東軍を迎え撃つには要所です。
大阪城に長束正家がいたら東軍の勝ちだった。
うぽつです!!
できれば世界史関連の動画もお願いします!!
10:33 加藤清正は当時、九州にいるんじゃないでしょうか?
天下分目ってどっちかと言うと小牧長久手の戦いですよね。
まさに👍
いや、その通り!力の有る者どうし
@@石峰良幸 豊臣vs織田、徳川連合軍
三英傑(1人違うけど)の戦いだもんね〜
小早川秀景は裏切ったのではなくもともと東軍だったと思う
@@マヤ平 秀秋
家康も至極全うな感じだったらしいがな
秀吉の遺言に最初に背いたのも毛利・奉行方だし、他大名との婚姻も家康の立場から考えると違反ではなかった
白峰説や高橋説について解説してくれるのかと期待しましたが、実に残念です。今ある解釈そのままでしたね。
gentoku ryubi 何ですか?それ
あの説は斬新ですが、解釈が独善的すぎて無理があると思います。
三成と毛利二人いないと西軍はなりたたんよね。
逃げ道の無いところに陣をはったのは西軍必勝と思ったからだろうけど。
それから約270年後に島津と毛利に関ヶ原のリベンジを食った徳川。あのとき息の根を止めとけば、と家康も思ったに違いない
三成さんの戦下手(経験不足?)と人望の無さが西軍をまとめられなかった&軍の戦意高揚にも繋げられなかったのか┐('~`;)┌
輝元は吉川広家の本領安堵の交渉を知らなかったという話しもあり、それ以降宗家は広家は裏切り者として冷遇し疎遠になったとか…。
関ヶ原の戦いは奥が深く、三成が中心だったかもわからないし、そもそも戦場は関ヶ原じゃないという説もある。
坂本龍馬もだけど、史実と後世の小説を分けないといけない。
坂本龍馬と石田三成はたしかにかぶりますね。
奉行職も解任されていて実権も人望もなかった三成が関ヶ原においてどのような立ち回りだったのかはまるで分っていませんからね。
連合軍的性質が強い西軍において、話を面白くするためには確固たる中心人物がいた方が都合が良いわけで、それ故に忠義心により西軍をおこし、最終的には斬首された忠臣石田三成が創作されたのだと思います。
某やるおスレで吉川が「西軍が勝っても『自分に』良いことがないし、論功行賞を取り仕切る人間がいなくて恩賞とかなくなるだろう」みたいなこと言ってて、要は大名陪臣問わずこの意見が多かったんだろうなということ。
伊達政宗が上杉、佐竹と連合して関ヶ原の戦いで手薄になっていた江戸城を落としていたら面白い展開になっていたと思う
その頃、伊達家は佐竹家、上杉家と敵対していた。関ヶ原の戦いの最中上杉と伊達が正面衝突していたからそれは難しいと思うけど、もしそれがおこっていたら真田も加わって歴史が変わっていたと思う
伊達政宗は所詮家康に良い様に使われたって事でしょうね。
本当に才覚があれば、この機を逃す手はない!
年齢的に政宗大チャンス!
北の関ヶ原がなかったら、、、考えると奥が深い
@@菅原道真-r2y
これややこしいねぇ佐竹、最上、結城、蒲生と上杉を取り巻く中の伊達
三成は豊臣に対して忠義一徹。イエヤスの傍若無人さに耐えられずに旗を挙げたんだろうな。三成のドラマが作られたら面白いのにね♪
「関ケ原」という映画がありましたよ~主演は岡田准一で三成役でした。。。
僕らは現在知り得る情報(それすら研究が進んで変わっている)を知った上で、結末までわかってて歴史を振り返るとゆう事を楽しんだり学ばせて貰ってます。
だから、家康が優れてるとゆう意見には『うんうん!』と思うけど。
三成がダメって意見見るとせつなくなるなぁ。ダメで心底人望ない人がこんな大きな事出来るわけがない。
秀吉死後、後を追うように、前田利家が逝ったのが、豊臣家の不幸。
グダグダではない戦争がないだろうね
立花宗茂が「秀吉様の恩義にそむけない」といって西軍に参加したというのなら、当時多くの武将たちは、豊臣VS徳川であることは知っていたはず。「これからは徳川の時代」と思ったことだろう。結局、自家がどのように勝ち馬に乗れるか、それだけを考えているだけ。
真田は最後まで勝ち馬を迷ったのかも
お疲れ様でした。私が推測する関ヶ原の戦いはどうでもいい女の戦いでしょうか?オネとチャチャの戦いだと信じてます。
言わずもがな、歴史大好きな人は豊臣恩顧の武将はどちら側になびいたか言うまでもありません。しかも西軍は人質を取るなど言語道断です!
三成も関係の無い~関ヶ原の戦いの前日の中山での戦いで多分、勝敗はついていたみたいなのですが。。。
実は家康の手紙作戦で総大将の毛利秀元(養子)も家康軍が堂々と通り過ぎるのを見守っていたらしいです。
この毛利軍南宮山での躍起にハヤる長宗我部盛親や西軍に対しての言い訳の逸話が「宰相殿の空弁当(さいしょうどののからべんとう)」です。
「大変申し訳ありませんが只今、兵に弁当を食べせてますので暫くお待ち下さい」恐らくどさくさ紛れに言い放ったのでしょうが頭の回転が早い人ですね。
最後は・・人望(笑)3:00
清正、関ヶ原に来てませんよね。
官兵衛と共に九州の西軍の領地を荒らしたのは超有名ですね。
戦べた同士の戦い。これに尽きる。三成は忍城の失点がでかすぎて、秀吉の衣を借りることで
いい気になってただけ。人生経験の違いがもろに出てしまった。毛利輝元は三成より己の分を
知っていた。だから防長2州に削られても耐えられた。妙なところで毛利元就の血統が働いた。
260年を経てその執念が実を結ぶ。
だから天下分け目の決戦でしょ…戦争は政治の延長ですよね。
ですよね。
武家社会の序列では豊臣家臣なのに、征夷大将軍になれたのは関ヶ原で勝ったから。
このチャンネルは初心者入門編(興味を引きそうな話題で歴史ファンを増やす)なので、突っ込んだらキリがないです。。。
三成の側には島左近もいたのにね
最初に動いたのが、東軍であったとすれば、大垣城を撃ってでた西軍は、家康が、関東に帰参できないように、関ヶ原の東側に布陣するとか、あるいは、挟撃を念頭に、立花宗茂を、頼りにして、大垣城に、籠城することもできたのに、何故石田三成は、焦って戦站を、開いたのか?
三成には、少なくとも、捕らえられて、斬首される憂き目に会う運命にはならなかった局面はいくらでもあったと、思うのは、私だけでしょうか?
自分なら大坂城への退路は最低限確保しますが(笑)三成は相当な自信家なんでしょうね。万が一敗戦しても大坂に逃げられたら家康も手が出せなかったと思います。家康でさせ敗戦した場合の退路は確保してたのに。
@@pianochandaisuki 山内一豊、堀尾忠氏、中村一氏、東海道の城々を治めていた家康監視の秀吉子飼いの諸将が、家康にそっくり帰依したことなどですね。
また、UP動画の内容のように、三成の居城の佐和山城は、せっかく関ヶ原に近接しているのに、何故、要領よく戦線離脱して、籠城しなかったのか、彼の自信と現実の能力は、あまりにもかけ離れていたと言えるのではないでしょうか。
家康を大阪まで引き込めば必勝だった。
輝元も総大将の立場から、見て見ぬフリもできないし、豊臣系の大名は大阪に手出しはできない。
自領の佐和山を突かれるのを怖れて、関ヶ原などで野戦をやったのが大失策。
佐和山を突かれるのを恐れた云々は一部事実もあるでしょう。ただ西軍はここを東軍に突破されると大垣城に孤立せざるを得なくなります。伊勢路は長島城を福島が抑えていて将兵を支える兵糧を送ることが出来ません。安定して兵糧を確保するには関が原を突破されると手の打ち様がなくなり、小早川が松尾山城占拠した時点で関が原に集結する選択肢以外無くなっていました
toshi s
だからこそ佐和山も捨てて、大津の味方と合流して大坂まで引けば、家康に戦う理由が無くなる。
家康に西下させた時点で作戦負け。
その前に東軍諸将を討っておかなければいけない。
戦機を逸して、それから家康得意の野戦など必敗だ。
そしたら京都にいる天皇は家康の好き放題になりますよね、、、
りょうちゃんスポーツ
天皇の権威など既に無いに等しい状態。
何なら大坂まで連れて行ってもいい。
その必要もないとは思うが。
ただ、大坂まで家康を引き込んでも、家康の口車に乗せられる可能性はある。
家康には大坂を攻めるつもりはなく、君側の奸を除くだけとか言って、三成らを排除するかも。
三成は、関ヶ原で勝負をつけることにこだわりすぎて、兵を疲れたまま移動させた。島津は怒りのあまり戦おうとしなかった。
島津と島左近は夜襲案を提案したが三成が却下、やはり三成は戦ベタだ
@@小谷和浩
それ現在ではほぼ全否定されてますよ
歴戦の島津が数万の家康本陣に奇襲なんていう危なっかしいギャンブル策やろうなんて言うはずないと
三成は家康の作戦にまんまと乗せらせた。という事だと思います。
B.C.632・城濮の戦いで、晋の文公は三舎をさける=軍団を退却させるという、以前にした約束を守って引っ込んだのをみて楚の成王は、はい負けって戦わないで退却した。 三成は三顧の礼でむかえた島左近と大谷吉継のアドバイスは無視して野戦をいどんでいる。
アメリカンフットボールではないので、地面をとっても勝てません。
とにかく家康と三成の人物差で片付けるのは、あまりに歴史に対する理解が浅いと思いますよ
我が家の家系図には、憎き家康と書いてありました。
毛利家の家臣だったのかな❓️
真田家の家臣の可能性もありますね
場所はどこなんですか?
あまり詳しく調査されていないのが
残念です。島津家の家臣の覚え書き
とかをもっと確認された方が
良いですよ。
グダグダだったじゃなくて、家康が関ヶ原の前にグダグダにしたんでしょ。
ダイナ 大坂の陣もそうだがもうこのころはガチンコよりも諜報戦が主流。まず勝ってしかる後に戦う。その点だけは中国より2000年遅れてる。
年取った後の秀吉に出来なかった戦略w若い頃は得意だったけどw
三成が実戦経験に乏しいとは思えませんね、もちろん武闘派大名たちと比べれば少ないでしょうが槍働きもこなしております。
そして上杉征伐の際に家康は豊臣からの錦の御旗を得ています。どうあがいてもあの段階では徳川は逆臣にはなり得ません。むしろ輝元が秀頼を人質にして立て籠っていると言う大義名分を得ることができます。
この戦を一般民が高台から見物していたなんて記録があるそうですが、想像するだけでワクワクしますね
当時の各武将たちは何を考えて戦っていたのか、見物人も何を思い見ていたのかも現代人の勝手な想像だがそこが歴史のロマンだね
一般人の見物って、関ヶ原方面の住人だろ。農民の首を集めて恩賞に与ろうとする足軽とかいるからな。避難というべきだ
徳川家康の勝利ではなく、内部対立。
奥が深くてヒダがあるますねぇ~!
勝負は一瞬でついてそもそも小早川秀秋も最初から東軍だったという説が最近でてきました。
北政所は迷っている小早川秀秋に今後の世は「徳川の世」となると言われたそうですよ。
徳川の世にするか
己が秀頼の後見人になり
関白になるという傲りに
決断出来る器量もない秀秋は
最後の最期まで大谷吉継に
信用されていませんでした
大谷吉継が頼みにしていた
与力四人衆が皆寝返るとは
思ってもいなかったでしょう
たしかに。しかし石田三成は戦を有利に展開させて小早川を西軍に参加させてやる。と執念を燃やしたことはさすがだと思うがな、
戦後、毛利も「三成にいっぱい食わせられたわい」って言ってましたし、ホント、三成さん、人望がなかったんですね。。
ま、真面目ではあったんでしょうけど。
個人的には嫌いじゃないですよ。
本能寺の変がなくても最後には家康が天下を取ったかもね
lemuelianus 25勝1敗の方が表現が良いと思います。私の格闘技の見過ぎかもしれません笑
うむ❗
信長には凡庸な息子しかおらん。
家康にはわりと良い息子が多い。
第一信長は部下の意見は聞かない。
徳川幕府は必然である😳
@@レミュ-y7g
秀吉の暗躍説に賛成です、得をしたのは秀吉、そのころ家康は伊賀越え中
立花宗茂、有名ですよ。多分知らない人は戦国武将を知らない人です。
東の本多忠勝 西の立花宗茂ってぐらい有名だよね(例えはもっと違うけどね)
私も、戦国無双まで、知りませんでした。
知名度が低いのは、宗茂が九州平定以降に活躍した人物だからだろうな。実際、秀吉の四国・九州・小田原征伐はいずれも圧倒的な兵力で蹂躙した節があり、不人気に感じる。一般人の多くは九州の大名といえば島津・大友・龍造寺を挙げるから、小西行長・加藤清正・黒田長政・立花宗茂などの名前は一般人には九州の大名としてあまり知られてないのは仕方ないのかもね。
だいたい日本屈指の戦国大名に、文官が大将はって挑むのが無謀極まりない。
プロ野球のペナントレースで、フアンの芸能人が監督するようなもんww
三成の悲運は、実に痛ましいところでございます。
私も人望がないので、ある意味三成に同情するようなことがあります。
「精神」は人に左右される、というところが、「人間の弱さ」でしょうか?
家康の挑発に乗った三成のおうーんゴール!
結局、ソレだったな🤔
天下分け目の合戦に変わりはありませんよ。 全国の全ての大名が 東 か西か どちらに付くか 態度を 決めなければならなかったのです。
初めまして😊
態度を、って言葉正確✨
参加武将全員が『ほんまはどちらにつきたいか。(不参加も自由)』だけで東西選べたら組合せ全然変わったやろなぁ。
喜連川家だけはどちらにも付いてませんね。ただこの頃はとても大名とはいえない勢力でしたけども。
@@ひろたかし-w8m 徳川家康は、 長く続く 名家を好んでいたので 、足利の 血を引く 喜連川家を取り立てたのです。
関ヶ原の戦いは、徳川家康が用意周到に仕組んだ罠、だったように思いますけど。
徳川家康が上杉を討伐する理由も、ごり押しですし。
上杉を討伐する前の、標的は前田家でしたから。
徳川家康が豊臣軍として大阪城を離れて、石田三成に事を起こされたのでしょうね。
勝ち戦の決まっていた、東軍の大名も、長期の戦いは好んでおらず。そこで、武功を上げておかないと、困る小さな大名や、浪人が必死に戦いました。
途中で、西軍から寝返った大名は必死に戦いましたけど。
上杉討伐は家康の罠に賛成、罠にかかった三成
いやいや、考察が浅はか過ぎる……
近くにある佐和山城に逃げ込んで、もう一度大坂城をを目指せばよかったのです??
そんなうまくいくわけねーだろ。
なかたたなか 思った。
確かに。信長の野望じゃ無いんだから。。。(笑)
日本人同士の最大人数の戦って、大坂の陣じゃなかった?
いや、小田原征伐
小田原戦は、輸送部隊なども入れて50万人といわれています。それだけの規模を運用できる豊臣に降伏した。
三成は無能ではないが政治力と戦闘面どちらとも家康と比べられるのは酷。良くも悪くも三成は行政官僚だと思う。
資金源を語らない歴史って意味あるのかなぁ?
戦が起こるのは大概は金絡みだし、子分に身分と地位を保証する
信長も貿易と通商で力を得たし、秀吉は太閤検地、家康は金山経営
金がないと子分は着いて来ない
京極高次が立花勢を引きつけた事が関ヶ原の勝敗を決めたと思います。
逆に言えば立花勢が到着する前に勝負を決めた家康の作戦勝ちですね。ただ三成が実戦経験がない云々は間違いですね。
基本的に秀吉の御用聞きしかしていなかった為に家康のようなしたたかな外交が出来なかったこれに尽きます熱。
「小牧・長久手の戦い」のほうがよほど「天下分け目の戦い」っぽいですね。なにしろ織田、豊臣、徳川の三家が主力として参戦。毛利、前田、長宗我部、北条らも参戦。尾張・美濃を中心に北陸・四国・関東まで拡大した戦域。織田の衰退・豊臣の政権確立・徳川の存続という後世への影響など、どれをとっても最重要の戦いと言えます。
三成の実力不足!実戦も足りければ、人望もない!良く戦ったなと思う!
毛利輝元が情けなすぎる。
吉川広家、安国寺恵けい、関ヶ原に赴いた毛利秀元、小早川隆景の養子である小早川秀秋はもはや毛利一族とはいえないのかもしれないが、それぞれの武将にそれぞれの思惑があり、一族を全く統率できていない。
だいたいこのような天下分け目の重要な一戦に総大将自身が出陣せず戦火の及ばない所にいるなんて、、、
戦に敗れた後も毛利は本領を安堵するという家康の言葉をそのままうのみにして大阪城と秀頼をあっさりと家康に引き渡し広島に退去するとは、
本当に残念すぎる大将と言わざるを得ない、ただ皮肉にも輝元の凡庸さのお陰で毛利家は存続をゆるされたのかもしれない
毛利のしたたかさに騙されてますね?本格的にやり合えば家が潰されちゃう。だから、消極的にたたかったんでしょうが
隆景が存命であれば、結果は変わっていたかもしれませんね。
OK MT もう少し長く生きてて欲しかったね
確かに…小早川隆景の存在は大きすぎましたね。廃嫡にした秀包がそれなりの器量だったような気がします。一番の不幸は、毛利の三本の矢がばらばらだったことでしょう。兄弟が結束が強いから子の代も?とは難しいものですね。
隆景が存命だったら関ヶ原合戦を迎えるにあたって毛利はどういう行動をとったんでしょうね。
佐和山も近かったのだから逃げて態勢を整えるって、そんなことしたら東軍に余計勢いがついて、さらに宇喜多とか小西、大谷などの手堅い味方が消えて、裏切り者が続出っていうことになるんじゃないかな。それで大阪に行くルートを遮断されちゃったら袋の鼠だし、1回目はだめだったから、2回目の挑戦なんて土台無理な話じゃないか。もちろん頼朝の例はあるけど、鎌倉では平家はグダグダで、義仲もいたから頼朝だけに力は割けなかったんじゃない?でも、この時は三成を潰せばOKっていう状況だったのだから、形勢不利と見たらいち早く遁走…なんて判断はできないよね?姉川とか4次川中島みたいに頑張ってれば形勢が変わることだってあるんだし。途中で逃げるっていうのは、結果を知っているから言えることであって、その場にいた人にはできないことだろう。「トップがやられては軍を保てない」っていうけど、トップが逃げちゃっても保てないと思うけど。
hyttskzk 長文意見失礼します。自分は負けたが見えた時点で佐和山(もしくは他の西軍の領土)へ行くべきだったと思います。勝てるかとは別に。というのは逃げたところで上杉が負けているからです(このせいで勝ち筋が少し狭い)。トップが逃げたら確かに軍を保てずに関ヶ原は壊滅しますね。それは結果論から言うと逃げなくても変わらなかったわけで。陣形を見るに南宮山が動かないのはほぼわかっていると言わんばかりの魚鱗陣ですし、小早川はもとより東軍なのはお察し。(正直脇坂さんたちは、、、どうなんでしょうか?)大谷も小西も宇喜多も全力。島津は動かなかったなどと言われてますが井伊軍と交戦していたのは確かでしょう(島津陣の防戦だけだったのか分かりませんが)。要するに関ヶ原で出せる最大火力がみんなが知っているあの結果です。これはもう逃げる一択では無いでしょうか。(宇喜多軍の敗走がめっちゃ邪魔だ!!by島津)逃げれるのかは、、、まぁ三成よ頑張れ。逃げたあとは島津も長宗我部も立花も(上杉も毛利も)なんとかしてくれる「可能性」はありました(現に義久は九州で加藤勢を蹴飛ばしたらしいですし)。そうなると三成を潰せばOKだなんて言えない状況になりますよね(この三成を潰せば、、、というのが1番結果論な気がしますが)。正直自分の意見は結果を知っているから言えるものだというのは否めませんね。ですが三成はこれくらいの判断は取れたはずではないでしょうか。戦術と戦略は別物とは有名な話ですが、さすがに戦略に優れた人くらい居ないものでしょうか。というより三成も戦略なら今まで見てきたはずですが。要するにですが、正解は一つではないとよく言いますが(コナン涙目)撤退するのが正解だと思います。
天下分け目の戦いと言われたのは後の話しですね江戸時代に家康が江戸幕府を開いた後に書かれた記述が物語になりました。家康を称える脚色はあって当然です。天下分け目の戦いと題されたのは文字通り各地の大名が家の存続を賭けてどちらに味方するのか?をはっきりさせる出来事だったからです。この関ヶ原の戦いで仮に家康が敗れていたとしても西の豊臣家がまとまって天下統一ができた可能性は低いでしょうね。つまり江戸時代になるのはもっと遅れただけです。家康が天下統一を諦めるはずはありません。西軍がそのまま江戸に向かって家康を追い詰めて討伐するということは考えにくいですね。二分されたままの時代が過ぎて結局は家康が将軍になると思われます。
。
>関ヶ原の戦いで仮に家康が敗れていた
家康は東軍を維持できませんよ?次に東北は群雄割拠に逆戻りですね。家康としては天下人を諦めて割拠という選択肢が魅力的になりますが、一戦して勝利した豊臣の奉行衆にとっては、多少時間がかかっても東国と九州の再制圧は必然です。大坂を中心とする経済ネットワークの再構築が課題とならざるを得ませんから
15年後、家康は寿命を迎えますが、三成は55歳ですね。さて?
家康の死後、三成と秀頼で豊臣政権を維持したのでは?そのための大阪の陣では?
かわいい💗
そもそも石田は20万石くらいしかないから力不足だろう。
家康の作戦勝ち(笑) 三成の賢いのが返って仇になった感じもします。現場実戦のなさと人望の薄さかな!
三成が悪者に見えますが、三成にも大義名分があっだと思う。
日本の政治はちょうりゃくで決まる 今も昔も変わらん 三成の勝機は籠城か夜襲しかなかった 野戦に持ち込んだ時点で負けやろ
さおりさんの「〜しょう。」を聞くと、清涼感のある空気が周辺に流れます。これは、何かの思し召しなのでしょう。感謝。
歴史の真実は?
真実には色んな側面が有って、見方次第でどうとも変わるものです。
家康老獪ですね。
確か三成の近くには豊臣家黄母衣衆2000人が布陣していたけど、それは徳川対豊臣にはならないのかな🎵
堀北真希ちゃん
キタ━(゚∀゚)━!
三成の不幸は戦闘ではなく兵站の天才だったこと。
秀吉は兵站の重要性を見抜き、三成を重用したが、周りは理解出来ずに嫉妬されてしまう。
映画にもなった忍城戦では、秀吉のリクエストで水攻めしたのが運の尽き。
それ以後、戦闘に関しては自信を無くし、周りからもそう見られてしまった。
朝鮮出兵では前線が報奨欲しさに戦果を盛っていたが、
三成が嘘だと見抜き、秀吉に報告したから前線の将から恨みを買ってしまった。
トコトン運が悪い人だなぁと思ってしまう。
方や戦上手で人望も厚い家康。勝ち目なし。
家康の人望は、全て策謀と、荒れていた関東平野の実禄化による、財政力、譜代の家臣団の結束の堅さ、特に策謀に長けた者が多かった事。だから、まだ戦国の気風の残る豊臣家臣団を、バラバラに出来た事が、関ヶ原につながったとは、言えないだろうか。
また、外様大名でも、東国諸侯は、悉く家康に懐柔されたが、その正体を見破って居た上杉家に難癖を付けて、上杉征伐の名目で戦闘準備の整えさせた東軍諸侯に対して、西軍の動きは、余りに後手に回りすぎていた。また、黒田長政の父、秀吉の軍師でもあった黒田如水を結局、九州で蚊帳の外にしてしまった事も、西軍には痛い条件のひとつではあるまいか🤔💦
綺麗な黒髪と大きな瞳に、白のニットがお似合いですね☆
豊臣恩顧の大名が「三成バカタレ」と言って家康についたからな。
家康の書状は無かったはず。加藤清正や福島正則の書状はあったみたいだけどね。
宇喜多秀家
正に、秀吉の子でしたね!(汗)
義理のですが。
決定的に裏切って、勝敗を決めたかたちになった金吾 小早川秀秋も、秀吉の養子だったよ。
考察が浅い。
関ヶ原は豊臣vs徳川の構図ではない。
豊臣政権下の家臣の対立抗争であり、秀頼を主君として奉じていたのは、家康も同様だ。
おけ、みるのやめた
動画内でそういう風に語っていると思うのですが・・・。
あなたこそちゃんと見てからコメントしているのでしょうか?
ちょっと理解力と人格を疑ってしまう
動画みた?
この動画では家康が如何に極悪人なのかわかっているようだが、他の動画との整合性が崩れるんじゃないかな?
まぁ関ヶ原の状況を理解している点は評価できるけど(´・ω・)
この時、豊臣本家が全く動かなかったのが理解出来ない。
確かに立場的には豊臣政権内の内紛なんだけど、この時既に豊臣の脅威になりつつあった徳川よりも、豊臣の忠臣だった三成側が勝った方が良かったはずなんだけどな。
こうへい それには、諸説ありますが、司馬遼太郎の小説[城塞]には、淀殿が家康を打ち倒したいが。豊臣対徳川ではなく、一家臣が徳川と挑むことでもし徳川側が勝っても家康一代限りの天下と言う戦略を淀殿は立ててました。虫が良さすぎる作戦ですね。
家臣同士の戦いにすれば、三成が家康を倒してくれるならいいし、負けても家臣同士なので本家の豊臣家に被害はないと考えたんでしょうね
立花軍?毛利軍ではないのか
nobusumi4 一応毛利は戦場にいたよ。だが先鋒部隊の吉川広家が家康に内通してたから動かなかったけどね
関ケ原での戦闘でも、大正時代だったかなドイツ陸軍将校(メッケルだったかな)こんなもん西軍が余裕勝ちって言ってたぐらいだもんなあ、グダグダじゃなかったら東軍勝ててないよね。
yoshii871 明治じゃないかな?違ったらごめん
あの布陣は明治になってから薩長が作ったという説がある
@@rokuemu114 そうなんだ!面白い説ですねぇ
@@小谷和浩 薩長はながらく幕府に冷遇されたから
ドイツの将校がたいした当時の知識もなしに何か言ったから、どうしたんだよ。 人の威を借りずに、自身の意見なり主張だけを投稿するがよい。
本当に調べて言ってる?佐和山に戻って大坂目指せって、本戦に全軍連れて行って、腹壊して馬にものれない状態であるのわかって言ってる?馬鹿にしてるのか?
関ヶ原での戦闘、その後の経過を見ると、毛利輝元、吉川広家の毛利グループの馬鹿さ加減だけが目立つ戦いだね。
その裏すら読めないとは愚かなのはどちらかな?
積極的に戦えばお家断絶、しかし、義理で戦えば、勝てばラッキー、負けても、領地削減ですむ。
算盤勘定もできないようじゃね
これはもう歴史的事実ですよw
MrYoshichan 結果論じゃそうなる
MrYoshichan 小早川秀秋「ほんませやな」